6年生の平和学習「被爆体験者 友田氏から学ぶ」
- 公開日
- 2024/11/15
- 更新日
- 2024/11/15
お知らせ
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友田さんは、広島市の原爆投下のすぐそばにいながら、ただ一人生き残った人として、NHKや全国の報道で取り上げられた方です。
「友田典弘さん」・・・袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)で小学校4年(9歳)の時に被爆されました。現在は、大阪で生活をされています。
本日、5、6校時に本校体育館において、総合的な学習の一環として、6年生が平和学習を行いました。広島への修学旅行につながる学習を深化させ、先日の地域の方のお話に続き、本日、機会あっての友田さんのお話を聞く貴重な学習が実現しました。さすがに子ど達はやや緊張した面持ちで、友田さんの説明や、話をサポートする吾郷さんの言葉を真剣に聞いていました。原爆直下での壮絶な被爆体験は非常にインパクトもあり、心に突き刺ささるものでした。
また、今回は、毎日新聞社さん、津山テレビさん、津山朝日さんが取材に来られました。また、後日、新聞記事やテレビ津山の番組として放送されます。高野小学校頑張っています。お楽しみ!
少しだけ・・・ 2.原爆投下 「広島市立袋町小学校の記憶」から
前年から激しくなってきた空襲に備え、広島市でも1945年4月から、市内中心部にある国民学校の3年生から6年生までの学童で、親類・縁者が田舎にいる学童は、縁故疎開と称して、それらに身を寄せましたが、どうしても頼る先のない者は先生に伴われて、空襲の心配のない田舎に疎開することになりました。また疎開に行かせる余裕がない家庭の子どもは残りました。私も広島県北部にある三次のお寺に疎開しました。疎開先では、朝は5時頃起きてラジオ体操や駆け足訓練などをして、午前中は勉強、午後は農作業などをしていました。ところが食料不足で、ご飯も小さなお茶碗に一杯ずつしかもらえず、それにもさつま芋や大豆が入っていて、米はほとんど入っていませんでした。おかずと言えばイナゴを焼いたものくらいでした。イナゴほどまずいものはありません。嫌で嫌でたまりませんでした。毎日ひもじい思いをしていましたので、先生に体調が悪いと嘘をつき、母に迎えに来てくれるよう頼んでもらいました。そして原爆の数日前に広島に連れて帰ってもらったのです。
8月6日朝は雲一つなく、よく晴れていました。私は家をいつもと同じ時間に出たのですが、石蹴りをして遊びながら向かっていたために、学校に着いた時はすでに遅刻でした。下駄箱がある西校舎の前には、下級生の登校を見張るために6年生が毎朝二人ずつ立っていました。その一人に「早くしろ!」と手を引っ張られました。ちょうどその時、B-29の音が聞こえ、とっさに「危ない!」と思い、手を振り払い、下駄箱に続く階段を駆け降りました。下駄箱はコンクリート造りのこの校舎の地下にありました。校庭では朝礼のために教師5,6名と児童たち約70人が整列していました。私がちょうど片方の靴を履き替え、もう一方の靴に手をかけたところで、外がピカッと光りました。
それとほぼ同時に吹き飛ばされ、しばらく気を失っていました。